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セクシュアル・ハラスメント
シンポジウム報告集への序言

Catharine A.MacKinnon, Introduction, Capitol University Law Review, vol.10, no.3, 1981.

解説

本論文は、キャピトル大学で行なわれた、セクシャル・ハラスメントに関するシンポジウムの報告集に寄せたマッキノンの序言である。
これは、このシンポの少し前に出版されたマッキノンの古典的著作『セクシャル・ハラスメント・オブ・ワーキング・ウィメン』の中身の簡潔な紹介ともなっている。
原注はすべて省略している(一部だけ本文に組み入れ)。

内容

「……一つの新しい声が聞かれはじめている。社会的象徴秩序における空白を代表する声が。男性的言説においては語られもせず意味も持たず抑圧されてきた空隙を代表する声が」(クサヴィエール・ゴーティエ)。

 女性によって初めて定義された法律上の犯罪行為(wrong)として、セクシュアル・ハラスメントはフェミニストの発明であると呼ばれてきた。これまで長い間、女性は拒否できないような状況下において性的な言い寄り(sexual attention)を受けてきたが、ようやくにして政府はそれをある状況下においては違法行為(injury)になると認めるようになった。性差別禁止法は今日、経済上の生活条件や教育上の便益と引きかえに性的な服従を求めたり、性的な誘いをはじめとする職場内の事柄を職場環境として甘受させることを禁止しており、さらにまた、男を「その気にさせる(ask for it)」ような挑発的な制服を女性従業員に強制することをも禁止している。性的客体化(sexual objectification)こそ、こうした禁止規定の対象となっている諸事象に共通するものであり、ジェンダーの不平等の中心的な力学となっているものであるが、それは、以上の場合にかぎり違法であり、それに抵抗することは、以上の場合にかぎり合法である。

しかし、こうした経験が構造的なものであり女性にとって有害であることを最初に暴露したのは、フェミニスト運動の成果であった。なぜなら、フェミニズムこそ、自分自身の状況に対する女性の見方にもとづいてこうした状況を分析した最初の政治思想だったからである。本書[シンポジウムの各報告を収めた『キャピタル大学法律評論』第10巻第3号のこと]は、女性の見方を性的平等の法律に具体化させようとするこうした試みにおける、成功、不十分性、潜在的な限界を明らかにし、検討する。

セクシュアル・ハラスメントは今では正式の法律用語となっており、男性が「正常で期待された」性別役割行動と考えるかもしれない性的はたらきかけ(sexual initiative)が女性にとって損害を与えるものであるという訴えが認められるようになっている。それはちょうど、女性がレイプと感じる交わり(encounter)が男性にとって普通の性交(intercourse)であるとみなされるかもしれないのと同じであり、あるいは、女性にとって人権侵害的(violating)であると感じられる描写が男性にとってエロチックであるとみなされるのと同じである。

既存の法理は、こうした違法行為に対する男性的なものの見方に対応したものであり、それを是正したり、時にはそれを認識することすら困難であった。加害者男性の観点から見るなら、本人に悪気さえなければ被害など存在しないことになるであろう。同じ観点にもとづくなら、被害の程度と救済の中身も、異性間セクシュアル・ハラスメントの被害者が男性である場合にその被害者がこうむるであろう被害とそれに対する十分な補償になると男性が想像するものによって暗黙のうちに評価されるだろう。

すなわち、賃金、昇進、役職、等の具体的条件である。立証責任は事実上、社会全体としては性差別的ではないという前提(たいてい男性がそのような立場に立っている)に立って、原告の女性に対し、自分が女性の中で例外的な存在であることを証明するよう求めるだろう。性的なものを感じさせない品行方正な「良い女(good girl)」の基準を満たしている女性の場合には、保護に値するとみなされるが、いわゆる「悪い女(bad girl)」の場合は信用されないだろう。

こうした諸問題、すなわち、性的被害の本質、救済の中身の適否、責任の所在と範囲、裁判での信憑性に関する暗黙の基準は、現在ようやく、セクシュアル・ハラスメントという概念の文脈に位置づけられはじめている。これまでにいくつか成果が見られたが、それは女性の観点が多少とも受け入れられたことの反映である。訴えが却下されるという失敗もいくつかあったが、それは今なお存在する無理解を暴露している。裁判で敗北したこともいくつかあったが、それは、裁判所が抱いている「あるべき被害者」像と実際のそれとの間にズレがあることを示している。

女性の観点と男性の観点との間に中立的な基盤があるのかどうか、法律がとるべき本来の姿勢とはいかなるものか、これらの問題は、両性の関係、職場と学校におけるセクシュアリティの役割、国家の理論、等に依存している。

そしてこれらの問題こそ、本シンポジウムが取り上げ、究明し、さらなる前進を意図している実質的な関心事なのである。

本書は、セクシュアル・ハラスメント問題を性差別の法理と平等保護理論に位置づけることの意義をよりつっこんで検討する機会を提供している。連邦最高裁は差別事件の判例として「差別的な取り扱い(differential treatment)」と「不利な影響(disparate impact)」との間に区別をもうけているが、そこにいかなるメリットが存在しようとも、こうした分割はセクシュアル・ハラスメントの現実の事例には不適当である。禁止された基準(特定の性別の象徴ないし付帯条件としての女性のセクシュアリティ)にもとづいて個々の女性を差別的に取り扱うことと、いわゆる「性に中立な」基準が特定の性別集団に対して不利な影響を及ぼすこととは、相互に融合する(性的なサービスが経済的その他の権利剥奪やその脅迫によって押しつけられるという事態は、しばしば、効果的な制度的救済手段がないことによって支えられている)。

このような概念上の融合が起こるのは、現実の社会において、女性に対する男性の性的イニシャチブが、使用者ないし教師(異性愛の男性である場合が多い)と従業員ないし生徒(女性であるがゆえに望ましい性的対象とみなされがちである)との間のヒエラルキーと融合しているからである。さらに、「取り扱い」と「影響」とを分割することの根底にあるのは、個人としての訴えと集団としての訴えとが何か違うものであるという認識である。

このような違いは、被害を受けた個々の原告に代表的性格を求める「集団的な基礎を持った被害(group-based injuries)」という法理論のもとでは消失する。たとえ、時に被害を受けるのが一度あたり一人であったとしても、女性は個人として差別されるのではない。

実際、個人としての特異な資質にもとづいた取り扱いではないことこそが、差別という違法行為の一特徴なのである。同時に、セクシュアリティは、ジェンダーとしての女性の一属性であるのだから、それは特定の女性にとって何ら個人的なものではない。要するに、ここには、個人的なものと集団的なものとの区別など存在しないのである。

セクシュアル・ハラスメントの訴えは、暗黙のうちに「不利益な取り扱い」論@@この理論においては、差別的動機を証明しなければならない@@にもとづいて取り上げられているにもかかわらず、どの法廷も、ある行動が性別にもとづいたものであるかどうかを認定するにあたって、その差別的動機の証明を求めたことはなかったし、あるいはその存在を推論したこともなかった。このような法理上の遺漏は、女性の観点からするなら適切であり進歩的であった。なぜなら、多くの性的不平等は、無意識的で不注意な行ないによって、あるいは、保護者ぶった、善意にもとづく行ないや、よかれと思ってなされる行ないによって押しつけられるものだからである。これらの行為は、直接的には性差別的な動機によるものでないが、だからといって、いささかもその侮辱的で有害な性質が軽減されるわけではないし、特定の性にもとづく行為でなくなったりするわけでもない。女性が異性からの望まぬ性的言い寄りの対象となったのは、彼女が女性であったからであり、もし彼女が女性でなかったなら、そのような状況には置かれなかったろう。

この点の認識はセクシュアル・ハラスメント問題での重要ポイントであるが、このことは、「彼女が女性として被害にあったのは、男性による女性への性的言い寄りが女性を差別する目的でなされたからである」ということを証明するよう原告に求めるのとはまったく別である。法廷が、この種の意図基準[差別であるかどうかの認定を、行為者の差別的意図を基準に行なうこと]をセクシュアル・ハラスメント問題に再導入するのではなく、また、この問題を例外扱いするのでもなく、この意図基準が他の類似の問題においても不適切であることを理解されるよう望む。

性的不平等の核心部分

セクシュアル・ハラスメントに関する判例はまた、性的区別が、妥当な目的と「合理的な関連を持った」許容できるものなのか、それとも、その区別が合憲かどうかの「厳格な審査(strict scrutiny)」を要するものなのか、それともこの両者の中間なのかに関して、結論めいた決定を下すことを避けてきた。これはおそらく、セクシュアル・ハラスメントの慣行(practice)が会社ないし政府の何らかの是認しうる目的となにがしかでも妥当な関連があると主張した者がほとんどいなかったからであろう。しかし、このような決定が、男女で異なる慣行と性別(gender)との間に何らかの妥当な関係があることを前提にしているか、あるいは、そのような考えに逆戻りしている場合がしばしばあった。性的従属を禁止する何らかの実効力ある取り組みがなされていないために、「区別が正しく適用されているかどうか」を判定するどんな合理的な基準も@@それがいかに厳格であろうと@@、必然的に決定を下す過程の中で、「その区別が正しく性別にもとづいたものかどうか」(つまり、それが一貫して性別の線に沿った区別かどうか)という以前の問題へとなし崩し的に収斂してしまう。いかなる法理にもとづいてであろうと、これまで正面から取り組まれてこなかったのは、次のような問題である。

すなわち、男女間の置かれている異なった状況が性的不平等の核心部分を構成し、かつその不平等に対する口実になっているというのに、両性が「類似の状況」に置かれていなければ平等の原則を適用することができないのか、はたしてそのようなことを求めるのは妥当なのか、という問題である。これはつまり、性差別禁止法の分析上の出発点となるべきはジェンダ?の差異なのか@@それが不平等な結果を生むかどうかは別にして@@、それとも、ジェンダーの不平等なのか@@それが性差を生むかどうかは別にして@@、という問題である。

ジェンダー

 男女のセクシュアリティは、性差を表現しているのか、それともむしろ性的不平等を表現しているのか? 押しつけがましい性的な言い寄りが男性の合理的な愛情表現ないし魅力ないし性的衝動@@つまり性差@@とみなされる場合には、そのような言い寄りが望まぬものであったり我慢しがたいものであるという事実は受け手の側の問題になってしまうだろう。その場合には、そのような言い寄りは「恣意的な形で性別にもとづいたもの(arbitrarily sex-based)」とはみなされないし、された側の女性がそれに抵抗したり立腹したりしないかぎりハラスメントを構成するものとはみなされないだろう。セクシュアル・ハラスメント禁止法は、このような法理上の理論構成を変えつつも、その根底にある緊張関係、すなわち、法としての平等原則と、それが対象としている不平等な社会的現実との緊張関係に関しては曖昧なままだった。両者がぶつかるとき、法律は社会を合理的に反映するべきなのか、それともそれを変革するべきなのか? 

誰の観点からそうするべきなのか? セクシュアル・ハラスメント禁止法は、この問題を解決することができなかったために生じた法理上の不備に立ち向かうのを避けてきた。同時にそれは、セクシュアリティとジェンダーとを結びつける新しい指針を確立することも避けてきたと言える。そのような新しい指針が確立されるなら、それは、今後とも続くであろう各方面からの攻撃に持ちこたえることができるだろうし、女性にとって等しく死活にかかわる他の諸領域@@たとえば、レイプ、中絶、ゲイおよびレズビアンの権利、そして潜在的にはポルノグラフィ@@にも影響を及ぼすことができるだろう。

アプローチ

非常に重要ではあるが本書では十分に論じられていない他の問題として、裁判戦略の政治的側面、訴訟原因の人種差別的濫用、法的はたらきかけと結びついた運動の構築、などがある。原告は、異常な男性によって例外的に虐待された特殊な事例として、事実認定者[裁判官や陪審]に提示されるべきか、それとも、女性に共通する虐待の事例として提示されるべきか? 後者の場合には、普遍的であるがゆえになおさら深刻であり、したがって公民権法上の違法行為として認定しやすくなる。これは、原告側の事実問題および選択の問題であるとともに、政治原則の問題でもある。黒人男性を陥れるのに曖昧な性的逸脱行為@@とりわけ白人女性に対するそれ@@が人種差別的に利用されてきた歴史は、同じくらい大きな問題を提示している。この遺産は、女性が自分のセクシュアリティに対するアクセスをコントロールする権利を支持するのにこうした事情を利用しようとするあらゆる試みにつきまとう。白人女性が信用された場合でさえ、反人種差別主義のフェミニストは彼女を支持するべきだろうか。「本当に彼がやったのか」という問題は、確定的なのか、それとも不適切なのか、それとも両者の中間のどこかなのか。黒人女性が同じ人種の男性からセクシュアル・ハラスメントを受けたにもかかわらず、告発するのを拒否した場合

――おそらく、人種差別で名高い公的機関がどうせ自分の訴えを信じてくれないか、真剣に取り上げてくれないだろうという根拠ある確信ゆえに、あるいは、白人男性が加害者なら普通罰せられずにすむような行為に関して黒人男性だけを裁判にかけることに対する抵抗感ゆえに――

はどうか。よく知られているように、公的機関は、白人女性が黒人男性を訴えたときには、突如として女性の権利の擁護者となる。ただし熱心とは言えないが。このような状況のもとで裁判に勝利することは、はたして、性差別主義に対する勝利なのか、それとも人種差別主義の勝利なのか? それとも、なお悪いことに、その両方なのか?

 この問題――こうした状況が女性の利益になるような変化を作り出すことができるのかどうかという問題――

は、何らかの形で、フェミニストのすべての目標に関して生じる。セクシュアル・ハラスメントを禁止する法律はしばしば、自分自身のセクシュアリティに対するコントロールを求める女性の要求を、家父長的な保護を求める要求に変えてしまうことがある。それは、女性の力よりも伝統的道徳の方を重視しているような印象を残す。レイプ問題においてこれまで起きていたような事態を防ぐことができるだろうか。すなわち、レイプであることの法的立証要件が、レイプの現実とはほど遠い被害観を反映したものであるため、女性は、法的要件を満足させるだけの立証ができないような場合には、レイプされなかったと考えがちであった。セクシュアル・ハラスメントを禁止する法律は、多くの女性が自分たちの受けてきた抑圧に名前をつける一助となり、被害者を貶める烙印(stigma of victimization)を緩和した。

訴訟原因(cause of action)に制限を加えたり、裁判で敗北したりするならば、虐待を正当化することにつながるこうした感覚を復活させかねない。

セクシュアル・ハラスメントという違法行為を告発するための法的訴訟原因がつくり出され、それが追求されたことにより、次のことが明らかにされた。すなわち、事件を取り巻く社会的環境――ジェンダーはその一つである――が異なれば、利害関係も見方も異なり、合理性そのものの文化的定義も異なる、ということである。このことを自覚したからといって、法的ルールが純粋に相対的な主観性に還元されるわけではないし、原則が「角で刺されたのは誰の雄牛か」という問題に還元されるわけでもない。

それは、中立性(性的中立性を含めて)およびそれと結びついている客観性が、女性の経験している非中立的で、性的に客体化された社会的現実に適合しているという考えに異議申し立てをしているのである。それは、女性の受けている被害を女性の感じているとおりに定義するよう訴えているのである。アンドレア・ドウォーキンはかつて次のように書いたことがある。

 「人は、事態を何も変えることなく、ある観念について熱狂することができる。事態を何も変えることなく、観念について考え、観念について語ることができる。人々は多くのことについて喜んで考える。だが人々がしたがらないのは、あるいは、することを許されないのは、人々の考え方を変えることである」
(Andrea Dworkin, Woman Hating, New York, E.P.Dutton, 1974, p.202)。

差別に対する伝統的な法的アプローチが一つの考え方であろうと考えの対象であろうと、セクシュアル・ハラスメント禁止法は、その法が目標としてかかげる性的平等を達成するためには、女性に関する考えの中身だけでなく、その考え方とも対決する必要があるかもしれない。(訳 MRT)

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