ポルノ・買春問題研究会
論文資料集10
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ポルノグラフィ―新しいテロリズム
アンドレア・ドウォーキン

解説

このスピーチは、アンドレア・ドウォーキンがもっぱらポルノグラフィについて論じたものとしては最初のものであり、1977年初頭の冬にマサチューセッツ大学で75名の学生を前にして行なわれた。
 Andrea Dworkin, Pornography: The New Terrorism(1977), Letters from a War Zone, 1993, Lawrence Hill Books.

内容

 人類の歴史を通してずっと、恐ろしく残酷な犯罪が繰り広げられてきた。これらの犯罪は小規模に犯されたのではない。これらの犯罪は、珍奇なものでもなければ風変わりなものでもない。これらの犯罪は、風にあおられた炎のように、地球全体を覆い、人々を傷つけ、破壊し、灰に変えてしまう。奴隷制、レイプ、拷問、虐殺は、家父長制の時代が始まって以来、数十億もの人々の人生を支配する現実であった。一部の者が人を殴り暴虐を働いている一方で、他の者は死ぬまでその暴虐を受け続けた。

 いつの時でも、ほとんどの人々はこれらの最も残酷な犯罪を権利として容認してきた。無関心、無知、そして冷酷さゆえに、ほとんどの人々は、抑圧者も被抑圧者も、暴虐の言い訳をし、それを擁護し、容認し、笑い、無視してきた。

抑圧をしてきた側(主に男性)

 自分自身の快楽ないし利益のためにこれらの犯罪を犯してきた抑圧者たちは、正当化の口実を発明するプロでありました。彼らはマジシャンであります。なぜある集団が別の集団の手によって貶められねばならないかを説明する、立派で見事な、そして反駁しがたいように見える知的理由を空中からひねり出すからです。

彼らは魔法使いである。現実の死のまだ煙の出ている灰をつかんで、それを物語、詩、絵に変え、貶め(degradation)を人生の中心的真理として賛美するからです。

彼らは幻想の使い手である。想像の心的キャンバスに、鎖でつながれ切り刻まれた体を描きつけ、私たちが起きていようと眠っていようと、侮辱と暴虐が幻影にしか見えないようにするからである。そして彼らは心理的現実の操作者であり、法律の立案者であり、社会的必然性のエンジニアであり、知覚と存在の構築者であります。

抑圧されてきた側(主に女性)

 被抑圧者たちは、抑圧者の文化・法律・価値によって檻に閉じこめられる。被抑圧者の行動は、彼らの前提された劣等性にもとづいた法律と伝統によってコントロールされる。被抑圧者たちは、当然の成り行きとして、侮蔑的な名前で呼ばれ、低劣なあるいは嫌悪をもよおすような個人的および集団的特徴をもった存在であるとみなされる。被抑圧者たちは常に、法的に容認された暴力にさらされる。被抑圧者たちは、己れの無価値さのイメージと反響によって四方を取り囲まれる。知らず知らずのうちに、無意識のうちに、他のいかなることも知らされないまま、そうしたイメージが被抑圧者たちに烙印され、その脳髄に焼きつけられ、おぞましい自己憎悪と毒々しい自己卑下とが被抑圧者を支配する。そのような自己憎悪と自己卑下は、あらゆる自尊心の基礎となる戦闘的な尊厳を被抑圧者から焼き払ってしまう。

 被抑圧者たちは、おぼろげな警告や曖昧な脅しによって支配されたりコントロールされたりするのではありません。被抑圧者をしばる鎖は幻影ではありません。被抑圧者は、剥出しの暴力、現実の暴力、言語に絶する蔓延する暴力によって、テロルを行使されるのであります。その身体は、抑圧者の意志にしたがって、攻撃され略奪される。
 この暴力にはつねに文化的攻撃がともなっている。すなわち、普遍的な原理ないし学問であるかのように装ったプロパガンダです。「アーリア人」ないし白人の純潔は、そのお気にいりの原理の一つである。生まれながらの劣等性は、その学問のお気にいりの分野の一つです。

図書館をいっぱいに満たした博学な書物は、いっさいの疑いを残すことなく、ユダヤ人、アイルランド人、メキシコ人、黒人、同性愛者、女性が劣等な存在であると証明している。こうした能弁でずる賢い証明は、心理学、神学、経済学、哲学、歴史、社会学、そしていわゆる生物学と呼ばれている。時には、それらは物語や詩につくりかえられ、芸術と呼ばれる。人間の貶めは、生物学的・経済的・歴史的必然性として賛美される。あるいは、貶められる者たちのむかつくような特徴や生得的限界の論理的帰結であるとみなされる。通りに出ると、このプロパガンダはもっと俗悪な形態をとる。「白人専用」とか「ユダヤ人と犬はお断わり」といった標識が見られる。ユダ公、黒んぼ、おかま、売女といった野次が飛ばされる。こうしたプロパガンダにおいて、犠牲者は印をつけられる。このプロパガンダにおいて、犠牲者は標的にされる。このプロパガンダは、テロルの支配において、そのこぶしを覆う手袋であります。

 こうしたプロパガンダは、指名された集団に対する暴力を容認するだけではなく、それを扇動する。こうしたプロパガンダは、暴力の脅しとなるだけでなく、それを確実なものとする。

テロル

これらは、テロルの恐るべきイメージです。

  • ユダヤ人。
    痩せ衰えた姿、背後には有刺鉄線、ほとんど裸で、ナチスの医者がナイフで切り刻んでいる。これは暴虐として認識されている。
  • ベトナム人。
    虎の檻に入れられ、ほとんど裸で、骨はへし曲げられて折られ、体は青黒く変色している。これは暴虐として認識されている。
  • 黒人奴隷。
    アメリカの農場、ほとんど裸で、鎖につながれ、体の皮膚は鞭で引き裂かれている。これは暴虐として認識されている。
  • そして女。
    ほとんど裸で、独房の中で鎖につながれ、体の皮膚は鞭で引き裂かれ、乳房はナイフで切り刻まれている。だが、彼女は娯楽であり、すぐ隣にいる若者たちのお気にいりの空想であり、すべての男の崇高な権利であり、すべての女たちの潜在的運命であります。

さらに、

  • 拷問される女は性的娯楽です。
  • 拷問される女は性的な興奮を呼び起こす。
  • 拷問される女の苦悶は性的な刺激を呼び起こす。
  • 拷問される女の貶めは性的に魅力的です。
  • 拷問される女の屈辱は性的な楽しみであり、性的なスリルと性的な満足を与える。

女は、貶められテロルを行使される人々です。女は、男によって貶められテロルを行使される。レイプはテロリズムです。妻を殴ることはテロリズムである。医療の名において切り刻む行為はテロリズムです。何百万という形態での性的虐待はテロリズムです。

女は所有されている

女の身体は男によって所有されている。女は望まぬ妊娠を強制されるが、それは、生殖能力をコントロールしているのが女ではなく、男だからであります。女は奴隷化された住民です。私たちが刈り取る収穫は子供であり、私たちが働く農場は家庭です。女は、尊厳を侵害するような性的行為を強制されるが、それは、その普遍的宗教女性蔑視の第一条において、女が男にとって純粋に性的な家畜であるとされているからです。

女は占領された住民です。私たちの身体そのものが所有され、奪われる。そうする生得的な権利を持った他の者たちによって。私たちの身体は使用され、虐待される。そうする生得的な権利を持った他の者たちによって。このようなシステマティックな貶めを奨励し正当化するイデオロギーは、ファシストのイデオロギー、すなわち生物学的劣等性のイデオロギーであります。それがいかに偽装されていようとも、それがいかに洗練されていようとも、こうしたイデオロギーは、その本質に還元するなら、次のような仮定にもとづいている。

すなわち、女は、子産みの道具であり、挿入する穴であり、奴隷であります、と。女性の劣等性を前提するこうしたファシスト・イデオロギーは、この惑星における傑出したイデオロギーです。シュラミス・ファイアーストーンが『性の弁証法』で述べているように、「性階級はあまりにも深いために目に見えない」。女は男によって使用されるために存在するというのは、ごくシンプルで共通した見方です。

そして、こうした見方に付随し、それと固く結びついているのが、いわゆる「自然な機能」を私たちに果たさせるために行使される暴力は実際には暴力ではない、という見方です。

女に対して行使されるあらゆるテロルないし犯罪行為は、性的な必要性として正当化されるか、まったく取るに足りないこととしてあしらわれる。こうした極端な冷酷さはごく普通のこととして通用しているため、女たちが、何年、何十年、何百年もの語られざる虐待のすえに、ようやく、私たちにふるわれてきた犯罪に反対する怒りの声を上げると、馬鹿だの精神異常だのと罵られ、あたかも私たちが生身の体を持った人間ではなく、単なる塵あくたにすぎないかのように無視されるのです。

声を上げはじめた女性たち

私たち女性は今や声を上げはじめている。なぜなら、この国のいたるところで、私たちに対するテロルと中傷の新しいキャンペーンが展開されているからです。女に対する性的暴力を賛美するファシスト・プロパガンダは、この国を覆っている。女性の性的貶めを賛美するファシスト・プロパガンダは、各都市を、大学キャンパスを、町々を席巻している。ポルノグラフィは、性的ファシズムのプロパガンダです。ポルノグラフィは、性的テロリズムのプロパガンダです。緊縛され傷つけられ体の一部を切断された女の姿が、すべての街角、すべての雑誌コーナー、すべてのドラッグストア、映画館、ビル広告、壁に貼られたポスターに描かれているが、それは、反乱に立ち上がった女たちに対する死の脅しです。男の性的専制支配に対する女の反乱、男の性的権威に対する女の反乱は、今やこの国中に見られる現実であります。テロルを昂進させることによって反乱に対処している男たちは、あらゆる公共の場に、切り刻まれた女の体の写真を貼っている。

 私たちは次のような選択を迫られている。屈服し、このような虐待像によって打ちのめされ、女の貶めを人生の事実として黙って受け入れることへと押し返されるのか、それとも、断固たる抵抗の意志にもとづいて新しいレジスタンスの戦略を発展させるのか、です。

もし私たちが屈服するなら、すなわち、鎖につながれた女は自分たちとは関係ないなどと言って笑ってすませるなら、そして、毎日何百回となく彼女らの姿を目にするというのに自分たちの目をそらすならば、私たちはすべてを失うだろう。レイプや妻への暴力に反対する私たちの活動のすべては、結局のところ、そうした写真の一枚が私たちの千の言葉に匹敵するということに帰着するのだろうか?

 いくつもの抵抗戦略が展開されつつあります。女たちは、楽しみや快楽や儲けのために女を性的に貶めることが男の不可譲の権利であるという破壊的で下劣な嘘を受け入れることを、ますます拒否するようになっている。請願、リーフレット配布、ピケット行動、ボイコット、組織された破壊行為、演説会、討論集会、手紙運動、女性蔑視映画を配給・公開している業者に対する集中的で戦闘的な嫌がらせ、そして、ポルノ業者の独善的な政治的同調者に対するいかなる支援も気休めも与えることを断固として拒否すること、こうした運動はますます増大している。なぜなら、フェミニストは、新しい抹殺キャンペーンに直面して首をうな垂れることを拒否しているからである。これが、始まりつつある行動であります。それらの行動のうちあるものは不作法であり、あるものは上品である。あるものは怒りに駆られた自然発生的な短期的行動であり、あるものは、強力な組織と深い関与を必要とする長期的な戦略です。あるものは、男が作った法律を軽蔑し、戦闘性と誇りを持ってその法律を破り、あるものは大胆にも、法律があからさまなテロリズムから女性を女性ですら保護するべきことを求めている。これらの行動のすべては、ポルノグラフィが女性の尊厳とその当然の自由に対する暴力的軽蔑を積極的に推進するものであることをはっきりと認識していることから生じている。そして、男たちの言い分とは反対に、男の法律執行者によって逮捕され起訴されるのは、ポルノ業者ではなく、フェミニストなのです。

そして、男の特権が、怒った生意気な女たちによって街頭で脅かされるやいなや、誰もが突然「市民的自由論者」に変身する。「市民的自由」という概念は、この国においては、女性の性的権利を尊重する原理や行動を体現したことはなかったし、今なおそうではない。したがって、ポルノ業者が女によって挑戦されると、警察、地方検事、判事といった連中は女の方を罰するのです。彼らは、我こそは「自由な言論」の法的擁護者であると仰々しく主張しているが、実際には、男の利益、男の所有、男の権力の法的擁護者なのです。

フェミニストの行動

 ポルノグラフィに反対するフェミニストの行動は、この国を覆い尽くすことによって、もはやポルノ業者が逃げ隠れできないようにしなければならない。そして、貶められたくないしテロルにさらされたくないと思っている女たちの怒りを、彼らが無視したり嘲ったり遁走したりすることができないようにしなければならない。女たちが尊厳を主張し、その自由の可能性を求めるときにはいつでも、私たちは、私たちに対する暴虐を真っ向から賛美するファシスト・プロパガンダと対決しなければならない。その正体を暴露し、それを作っている連中を暴露し、それを公開している連中を暴露し、それを擁護している連中を暴露し、それに同意を与えている連中を暴露し、それを楽しんでいる連中を暴露しなければなりません。

 この困難で危険な闘争の過程において、そして、私たちに対するこうした犯罪を遂行し支えている連中の非妥協性を経験する中で、私たちは次のような最も厳しく最も深い問い、私たちをかくも恐れさせる問いを発することを余儀なくされている。

  • 私たちの貶めを必要とし、私たちの苦悶を前に文字通り恥も外聞もなく興奮している男のセクシュアリティとはいったい何なのか? 
  • 今なお(そして何年にもわたるフェミニストの分析と行動の後でさえ)、社会正義への関与を主張している男たち(ゲイ、左翼、その他何であれ)が、ポルノグラフィというもう一つの女性憎悪の病を男たちが熱狂的に支持していることの意味に正面から立ち向かうことを断固として拒否しているのは、いったいどういうことなのか?
  • ポルノグラフィを作っている連中、ポルノグラフィを消費している連中、ポルノグラフィを弁護している連中が、私たちといっしょに育った男たちであり、私たちがともに語りともに暮らしている男たちであり、私たちの近しい存在であり、しばしば、友人として、父親として、兄弟として、息子として、恋人として私たちが大切にしてきた男たちであるというのは、いったいどういうことなのか?
  • 私たちの身体から生まれた人々が私たちを貶めている世の中で、いったい私たちはどうやって、私たちの生の価値を守り、私たちの真の尊厳を確立し、そして最後に、私たちの自由に到達するというのだろうか?

(訳 MRT)

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