ポルノ・買春問題研究会
論文資料集10
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エロチカとポルノグラフィ――明白で実在する違い
グロリア・スタイネム

解説

本論文は、スーザン・ブラウンミラーの『私たちの意志に反して』やロビン・モーガンの「理論と実践:ポルノグラフィとレイプ」と並んで、ラディカル・フェミニストの反ポルノ論文の古典である。

 Gloria Steinem, Erotica and Pornography: A Clear and Present Difference, first printed in Ms, 1978, reprinted in Take Back the Night: Women on Pornography, ed.by Laura Lederer, William Morrow and Company, Inc., 1980.

内容

 人間は、妊娠できる時もできない時も同じ性的衝動を感じる唯一の動物である。
 私たちが、その進化の過程の中で、言語・計画・記憶・発明という人間に特有の能力を発展させてきたのと同様に、表現の一形態としてセクシュアリティをも発展させてきた。このコミュニケートの方法は、種を存続させる一方法としてのセックスの必要性とは区別される。人間にとってのみ、セクシュアリティは何よりも、人々の結合、快感の享受と供与、違いを越えてのかけはし、同一性の発見、感情の伝達といったものの手段でありうるし、しばしば実際にそうである。
 私たちは、周囲の環境を変革し肉体的に適応し最終的に私たち自身の進化に影響を及ぼす自らの能力を通じて、この人間的能力および他の人間的能力を発展させてきた。しかし、他の動物とは異なるこの螺旋的な道程の感情的な一結果として、私たちには、新しい境界線を構築する人間特有の能力を探求しようとする時期と、自分たち自身がつくり出した未知なるものの中で孤独を感じる時期とが交互に訪れるようだ。この恐怖ゆえに、時として私たちは人間と他の動物との同一性を誇張することを通じて、動物の世界の安寧に逃げ込もうとする。

 たとえば、「労働」からの「遊び」の分離は、人間世界においてのみ問題となる。その結果、私たちは遊びや芸術や発明を未知なるものへの飛躍をもたらすものとして祝福するようになった。しかし、どんな不均衡も、霊長類としての私たちの過去へのノスタルジーに私たちを押し返すことになりかねないし、労働の基礎的諸要素や自然や肉体的労働がより価値があり、より道徳的でさえあるという確信に押し返すことにもなりかねない。

 同様に私たちは、セクシュアリティを妊娠能力とは異なるものとして探求してきた。すなわち、同じ種の未知なる他人への、快感と感情移入をともなったかけはしとしてである。私たちは、人間に特有のこの特徴を拡張するために、避妊――それは、私たちの先祖が誕生の過程を理解して以来おそらく何らかの形態で存在しつづけた技術である――を発明しさえした。しかし、それと同時に、セックスが妊娠という結果になりえない場合にはそれは未完成ではないか

――場合によっては非合法ないし神の意志に背くものではないか――という先祖返り的疑念が去来する時がある。

 「エロチカ」という概念と「ポルノグラフィ」という概念とがこれほどまでにも決定的に違うにもかかわらず、これほどまでにも混同されるのも、驚くべきことではない。どちらも、セクシュアリティが妊娠とは異なるものであり、したがって個人的なメッセージを伝えるのに用いることができると考えている。これこそ、私たちの現在の文化においてさえ、どちらも等しく「けしからぬもの」と言われ法的に「わいせつ」――この単語は、「汚い、不潔」を意味するラテン語の派生語である――と呼ばれている主要な理由なのである。出産や結婚に結びつかないあらゆるセクシュアリティを十把一からげに非難しようとするこのような言い方は、女性の進歩に対する最近のバックラッシュによってより強められている。女たちが自らの性と生殖の未来を決定する自律的権力を本当に持つようになったら(すなわち、私たちが、最も基本的な生産手段である人間の生産をコントロールするようになったら)、家父長制構造の全体が引っ繰り返るのではないかという恐れから、右派集団は、プロ・チョイス派の中絶文献を「ポルノ的だ」として排撃するだけでなく、郵送を通じたあらゆる避妊情報の伝達を、わいせつ法を発動することで阻止しようとしているのである。それどころか、フィリス・シュラフリー[反フェミニストの保守派女性の大物指導者で、平等権修正条項(ERA)の批准を阻止するうえで最も大きな役割を果たした]は最近、女性運動全体を「わいせつだ」と非難しさえしている。
 この宗教的で反理性的なバックラッシュに世俗的で理知的な相棒がいることは、何ら驚くべきことではない。この相棒の立場は、主に動物世界の「自然な」行動を人間にあてはめることに依拠している。このようなあてはめはそれ自体大いに問題であるが、こうしたライオネル・タイガー流の諸研究は、彼らが選択した特定の動物と彼らが強調した特定の習性のうちに、彼らの政治的目的をむしろよりはっきりと現われている。たとえば、いくつかの霊長類(マーモセット、ティーティーザル、ヨザル)の雄は、自分たちの子供を抱いて移動するし、あるいは一般に「母親業」を行なう。それに対し、タイガー流の研究が好むのは、チンパンジーやヒヒであり、その雄の行動はきわめて「男性至上主義的」である。そこに込められたメッセージは、雌(女)は、性的に依存的という己れの「運命」を受け入れ、出産と子育てに自らを捧げるべきである、というものである。

 だが、このような反動的主張に反対してセクシュアリティを擁護する試みは、それはそれで、別の誘惑にもつながりうる。すなわち、相手の言い分を単純に引っ繰り返して、生殖をともなわないすべてのセックスは善であると宣言することである。しかしながら実際には、この人間的活動は、建設的にも破壊的にもなりうるし、道徳的にも非道徳的にもなりうるし、その他さまざまでありうる。コミュニケーションとしてのセックスは、生と死ぐらい異なったメッセージを送ることができる。

 「エロチカ」と「ポルノグラフィ」の語源にすらこの事実が反映している。何といっても、「エロチカ」は「エロス」ないし情熱的愛情から来ており、したがって積極的選択、自由意思、特定の個人への熱望という観念から来ている(興味深いことに、エロチカの定義はジェンダーの問題を未解決のままにしている)。「ポルノグラフィ」という言葉の前半部は、「売春婦」や「女奴隷」を意味する「ポルノ」から来ており、したがって、主題が相互的な愛情ではなく、それどころかそもそも愛情ですらなく、女性に対する支配と暴力であることを私たちに教えてくれている(もちろん、同性愛ポルノグラフィも、一方の男性を犠牲者という「女性的」役割に割り当てることによって、このような暴力と親和的になりうる)。後半部は、「何かについて書くこと」「叙述すること」を意味する「グラフォス」から来ている。この言葉は、主体と客体との間にはるかに大きな距離を置くものであり、親しくなることへの自然発生的な熱望を客体化とのぞき趣味に置き換えている。違いは言葉の上でも明白であるが、実例を挙げることでいっそう明白なものとなるだろう。

 人々が本当の意味で愛し合っているところの写真やフィルムを見たまえ。その姿はさまざまであるだろうが、たいてい感受性と愛撫と優しさ、身体の受け入れ、神経の高ぶりの終息がそこにはある。快感を分かち合うために一緒にいたいから一緒にいる人々の、自発性の感覚が常にそこにはある。
 次に、明白な力の行使があるような、あるいは、強制へと行き着く力の不平等があるようなセックスの叙述を見てみよう。非常に露骨なものとしては、拷問と緊縛の道具をともなったり、傷や痣を与えたり、明らかに屈辱的であったり、成人の性的権力を子供に対して用いているものであったりする。もっと微妙なものもある。征服者と犠牲者を表現した身体的姿勢、同じことを意味するものとして人種や階級格差を用いること、きわめて不平等な裸体――一方は裸で無防備であり、他方は服を着ている――など。どちらの場合も、平等な選択や平等な権力を感じさせるものは何もない。

 前者はエロチックである。相互が快感を感じ、積極的な選択によってその場にいる対等な権力を持った人々の間の性的表現である。それは見る人に鮮烈な印象を与えるかもしれないし与えないかもしれない。あるいは、未知なるものを現実的なものに見せるほど創造的かもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、いずれにしても、私たちは征服者と犠牲者のどちらにも自分を同一化する必要はない。それは真に官能的であり、見る者に快感を感染させる。
 後者はポルノグラフィックである。そのメッセージは暴力であり、支配であり、征服である。何らかの不平等を強化するため、あるいは不平等をつくり出すため、あるいは苦痛や屈辱(私たちの、あるいは他の誰かの)が快感と同一であるかのように私たちに教え込むために、セックスが用いられる。私たちがそれを見て何かを感じるためには、征服者か犠牲者のどちらかに自分を同一化しなければならない。つまり、私たちが快感を感じることができるのは、ある程度サディズムないしマゾヒズムを受け入れることを通じてのみだということである。それはまた、私たちが征服者の役割によって貶められたと感じたり、犠牲者に自己同一化することによって怒りと屈辱と復讐心を感じるようになるかもしれない、ということを意味する。

 もしかしたら、エロチカとはセクシュアリティに関するものであり、ポルノグラフィとは権力と「武器としてのセックス」に関するものであると単純に言うことができるかもしれない。同じようにして私たちは、レイプとは暴力に関するものであり、実際にはまったくセクシュアリティに関するものではないという理解にいたっている。

 たしかに、暴力的な家族や支配的な男性のせいで、愛情と苦痛とを混同することを余儀なくされている女性はいる。たいていの場合、これらの女性はマゾヒストになった(だからといって、このような苦痛を与えている人々が免罪されるわけではけっしてない)。しかし、実際には、ほとんどの女性にとって――そして、女性の苦境を自分の身に置き換えて考えることができるほど人間的な男性にとって――、ポルノグラフィはセックスに対する嫌悪感をもよおさせるだけである。

 もちろん、何がエロチックであるのかをめぐって個人差は常にあるだろうし、長期にわたって積み重ねられてきた文化的差異というのもあるかもしれない。多くの女性は、セックスは自分を無防備にするものであり、したがって、何らかのエロチックな感情を得るためには人格的な結びつきと安心感が男性よりも必要である、と感じている。他方で、男性は、無防備さを感じることがより少なく、したがって、見知らぬ他人とのセックスのような潜在的に危険な行為をより受け入れやすい。女性は現在しばしば、男性の持つ有能さや専門知識をエロチックなものと感じているが、自分自身のうちにこれと同じ資質を発展させるにつれて、このエロチックな感情は消えてしまうかもしれない。だが、一部の男性は、子供のような女性から服従を求める代わりに、平等な者同士の協力から快感を得ており、このような男性は、女性の場合と同じく、パートナーの有能さをエロチックなものと感じるようになるかもしれない。
 このような集団的な変化と個人差とは、女性と男性の間だけでなく、同性間の性愛のうちにも反映しつづけるだろう。重要なのは、同一性を押しつけることではなく、私たちの人生における探求と快感と感情移入を形づくるようなセクシュアリティを通じて、すなわち、望まぬ妊娠と暴力の両方から免れた人間的なセクシュアリティを通じて、自分自身とお互いを発見することである。

 しかし、これは希望であって、現実ではない。現在、生殖と無関係なセックスをすべて無差別に抑圧しようとする宗教的および「保守的」な男性の支配する世界と、女性のセクシュアリティに対するポルノグラフィックな復讐を敢行している「リベラル」ないし「ラディカル」な男性の世俗的世界の両方において、変化に対する恐怖が増大している。多くの女性が再び母親になることを強制され、ポルノグラフィックな殺人と拷問と女性憎悪のイメージが流行の文化と実生活の両方で増大しているときに、何が真にエロチックで何がそうでないのかを論じるのは、ほとんど奇妙な光景である。
 先に述べたこの2つの抑圧形態は両者あいまって、例の周知の分割を永続化させている。すなわち、妻か娼婦か、常に妊娠に対して無防備である「よい」女か、暴力から自分を守る「悪い」女か、である。私たちが自分自身のセクシュアリティをコントロールするならば、どちらの役割も一掃されるだろう。そして、それこそ私たちがやらなければならないことである。
 私たちのあらゆる先祖返り的疑念や、母親としての「自然な」役割に向けた調教にもかかわらず、私たちは性と生殖の自由のための複雑な闘争を遂行してきた。私たちの身体は、終わりなき妊娠出産と悲惨な中絶という健康上の重荷を背負わされてきたがゆえに、セクシュアリティと妊娠とを分離する動機を男性よりも強く持っていた。

 だが今や私たちは、生殖をともなわないすべてのセックスが必ずしも同じではないということを説明するという同じく複雑な責務を担わなければならない。私たちは、人間特有のセクシュアリティに対する権利と、しばしば生きる権利をすら求める動機を持っている。しかし、実際には、これまで私たちの身体が私たち自身のものであったためしなどほとんどなかったために、私たちは自分自身の人生においてエロチカを発展させることができなかったし、芸術や文学においてはなおさらそうであった。そして、私たちの身体は、これまであまりにも頻繁にポルノグラフィとそれが説く女性憎悪と暴力行為の対象であった。さらに、鎖につながれ、征服を求める男性視姦者のために全面的に体をさらし、傷つけられ、よつんばになり、サディストを喜ばせるために本当ないしニセの苦痛の叫び声を上げ、喜びでも何でもないことを喜びであるかのような振りをしている私たちの姿を見るたびに、私たちの魂は少しづつ打ち砕かれる。このことをも考慮するならば、私たちは、現実に私たちにつきまとうこうした女性像に目をつぶることはできないのである。女性に対する支配とセックスとを結びつける真に猥褻な観念によって、私たちは十分に貶められているのだから。

 セクシュアリティは人間的で、自由で、多様である――そして私たちもそうだ。
 だが、セックスと暴力とを結びつける、死の混同を解きほぐさないかぎり、ポルノグラフィはより多く、エロチカはより少ないだろう。私たちのベッドには卑劣な殺人者がいて、愛情はごくわずかしか存在しないだろう。
 (訳 MRT)

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